古文書が語る琉球王朝のちんすこう〜600年の歴史と変遷から紐解く沖縄伝統菓子の秘密

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古文書が語る琉球王朝のちんすこう – 歴史資料から紐解く沖縄伝統菓子の起源

琉球王国の宮廷記録に残るちんすこうの痕跡

「ちんすこう」という名前を聞くと、多くの方は沖縄土産として親しまれている四角い小さな焼き菓子を思い浮かべるでしょう。しかし、この素朴な味わいの菓子には600年以上の歴史が秘められています。琉球王国の古文書「御膳本」や「おもろさうし」には、現代のちんすこうの原型と考えられる「金楚糕(きんすこう)」の記述が残されています。

1532年に編纂された「おもろさうし」には、中国からの使者をもてなす宮中行事で供された菓子として記録があり、当時は現在のような大衆的な菓子ではなく、王族や貴族、そして特別な来賓のみが口にすることができる高級菓子でした。

「金楚糕」から「ちんすこう」へ—古文書に見る変遷

琉球王国時代の公式記録「琉球国由来記」(1713年)には、中国福建省から伝わった製法をもとに、琉球独自にアレンジされた点心として「金楚糕」が詳細に記されています。興味深いことに、当初の「金楚糕」は現在のちんすこうとは異なり、米粉を主原料とし、蒸し菓子として作られていたという記述が残っています。

国立沖縄博物館所蔵の「御膳日記」によれば、18世紀中頃から小麦粉と豚脂(ラード)を使用した焼き菓子へと変化し、名称も「ちんすこう」と呼ばれるようになったことがわかります。この変化は、琉球と中国・日本との交易拡大による材料調達の変化と、地元の食文化への適応を反映しています。

首里城の古文書から見える庶民化の過程

明治時代初期の古文書「琉球諸島記」(1872年)には、ちんすこうが王宮から徐々に一般へと広まっていく様子が記録されています。特に注目すべきは、首里城の料理人たちが退職後に技術を持ち帰り、各地域で独自のちんすこうを作り始めたという記述です。これが現代まで続く沖縄各地の多様なちんすこう文化の源流となりました。

国の重要文化財に指定されている「琉球料理記」の断片には、王家に仕えた料理人が記した詳細なレシピも残されており、現代のちんすこう製法との比較研究が進められています。これらの古文書は、単なる菓子の歴史だけでなく、琉球の食文化全体の変遷を知る貴重な資料となっているのです。

琉球王朝文書に記された「ちんすこう」の初出と表記の変遷

琉球王国の公式記録に見る「ちんすこう」

琉球王朝の正式な文書「琉球国由来記」(1713年編纂)には、「金楚糕(きんそこう)」という表記で初めてちんすこうが登場します。この資料は、当時の宮廷菓子として既に確立していたことを示す最古の文献証拠とされています。興味深いことに、現在の「ちんすこう」という呼称ではなく、中国語由来の「金楚糕」という漢字表記が使われていました。

表記の変遷と発音の謎

18世紀後半の「琉球国旧記」では「金楚餻(きんそこう)」という表記も確認されています。「餻」の字は中国では「こう」と読み、菓子を意味する古い漢字です。沖縄県立博物館所蔵の「御膳本」(おぜんぼん・1868年頃)では「金楚糕」から「ちんすこう」への表記の移行が見られ、発音の変化が起きていたことがわかります。

言語学者が注目する音韻変化

琉球言語学の専門家によると、「きんそこう」から「ちんすこう」への変化は、琉球方言特有の音韻変化のパターンに沿っています。「き」→「ち」、「そ」→「す」という変化は、他の琉球語彙でも見られる現象です。例えば:

  • 「金」の琉球読みは「ちん」に近い発音
  • 「楚」は中国福建省方言では「す」に近い音で発音

琉球大学の言語資料研究によれば、19世紀初頭の「御菓子御絵図帳」(おかしおえずちょう)では、すでに「ちんすこう」という仮名表記が登場しています。これは庶民の間で発音が変化し、定着していった証拠と考えられています。

首里城文書に残る製法の変遷

首里城文書館の復元資料(2010年調査)によると、初期の「金楚糕」と現代の「ちんすこう」では製法にも違いがありました。当初は中国福建省の菓子製法を取り入れた高級菓子でしたが、時代と共に沖縄の風土に合わせた変化を遂げていったことが読み取れます。特に砂糖の使用量や油脂の種類が、琉球独自の方法へと発展していった痕跡が文書から確認できます。

古文書から読み解く宮廷菓子としてのちんすこう – 王族と庶民の食文化

琉球王朝の貴族文書に記された「金楚糕」

琉球王国の古文書「御膳本」や「御料理帳」には、現在のちんすこうの原型とされる「金楚糕(きんそこう)」の記述が残されています。1718年の「御膳本」には、中国からの使者をもてなす宴席で供された点心として記録が見られます。特に注目すべきは、当時は現代のちんすこうとは異なり、ラードではなく牛脂を使用していたことが明記されている点です。これは当時の琉球と中国との密接な交易関係を示す重要な証拠となっています。

庶民への広がりを示す家譜資料

18世紀後半から19世紀初頭にかけての首里・那覇の豪商や士族の家譜(かふ)には、特別な祝い事や行事の際に「金楚糕」が振る舞われた記録が散見されます。当初は王族や上級士族のみが口にできた高級菓子でしたが、琉球の交易が盛んになるにつれ、徐々に裕福な商人層にも広がっていった過程が読み取れます。

特に1796年の「鄭氏家譜」には、中国福建省から伝わった製法を琉球風にアレンジした記述があり、小麦粉と砂糖の配合比率が現代のちんすこうに近づいていることがわかります。この時期から「金楚糕」という呼称も徐々に「ちんすこう」と表記されるようになり、琉球独自の発展を遂げていった証拠となっています。

明治期の文献に見る庶民の味への変化

明治32年(1899年)の「沖縄風俗誌」には、すでにちんすこうが一般家庭でも作られるようになったことが記されています。特筆すべきは、この時期の記録から、牛脂に代わって豚のラードが使用されるようになったことが確認できる点です。これは豚肉文化が根付いていた沖縄の食文化と融合した結果であり、現在私たちが知るちんすこうの形に近づいた重要な転換点でした。

古文書の分析からは、ちんすこうが単なる菓子ではなく、琉球の歴史、中国との交流、そして庶民の生活の変化を映し出す「食の文化遺産」であることが明らかになっています。

薩摩侵攻後の古文書に見るちんすこうレシピの変化と材料の歴史

薩摩統治下における材料とレシピの変遷

1609年の薩摩侵攻後、琉球王国は大きな政治的変化を迎えましたが、興味深いことに、この時期の古文書からはちんすこうの製法にも顕著な変化が見られます。「球陽附巻」や「御膳本」と呼ばれる王府の料理書には、それまでの中国風から日本本土の影響を受けた材料選びへの移行が記録されています。

特に注目すべきは、1712年の「琉球料理方記」に記された「金楚糕(きんそこう)」のレシピです。この古文書では、それまで中国産の小麦粉が主流だったのに対し、薩摩から輸入された国産小麦粉の使用が初めて言及されています。また、砂糖の種類も白下糖(しろしたとう)から和三盆へと変化した記録が残っており、これは薩摩との交易拡大によるものと考えられています。

琉球王府の古文書に見る材料調達の記録

18世紀中頃の「御用布帳(ごようぬのちょう)」には、王府がちんすこう製造のために調達した材料の詳細な記録が残されています。この文書によると、年間を通じて使用される小麦粉の量は約800斤(約480kg)、豚脂(ラード)は300斤(約180kg)にも及んでいました。特に注目すべきは、1765年の記録に「上質なる小麦粉を薩摩より取り寄せ、王府菓子司に納めよ」という記述があることです。

また、琉球大学が所蔵する「首里城関連文書」の中には、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、ちんすこうの材料比率が徐々に変化していった証拠があります。初期のレシピでは小麦粉と砂糖が1:1の割合だったものが、後に小麦粉2に対して砂糖1という現代に近い配合へと変化していきました。

民間への広がりを示す史料

薩摩統治時代後期(19世紀初頭)の「首里町方記録」には、一般民家でもちんすこうが作られるようになった記述があり、それまで王族や上級士族の間でしか楽しまれなかったちんすこうが、徐々に庶民の間にも広がっていった様子がうかがえます。特に興味深いのは、この時期の民間レシピでは、高価な白砂糖の代わりに黒糖を使用したバリエーションが登場し、現在の「黒糖ちんすこう」の原型が形成されたことを示す記述が残されています。

幕末〜明治期の記録に残る沖縄ちんすこうの製法と地域差

幕末期の「奄美ちんすこう」と「琉球ちんすこう」の製法差異

幕末から明治初期にかけての古文書には、ちんすこうの製法に関する興味深い記録が残されています。特に注目すべきは、1860年代に編纂された「南島雑記」に記された奄美大島と沖縄本島のちんすこう製法の違いです。奄美地方では砂糖の配合が多く、琉球(沖縄本島)では小麦粉とラードの比率が高いという地域差が明確に記されています。

明治初期の公文書に見る地域ごとの特色

明治5年(1872年)に編纂された「琉球産物記」には、首里・那覇地域と周辺離島でのちんすこうの製法の違いが詳細に記録されています。

  • 首里王府周辺:上質な小麦粉と精製された白砂糖を使用し、薄く平たい形状が特徴
  • 那覇港周辺:黒糖を多く使用し、やや厚みのある形状
  • 久米島・宮古島:ラードの代わりに豚脂を直接使用する独自製法

これらの記録から、現代の「黒糖ちんすこう」や「塩ちんすこう」などの地域バリエーションは、すでに幕末から明治期に形成されていたことがわかります。

製法の伝承と変遷を示す貴重な史料

明治10年(1877年)の「沖縄物産誌」には、ちんすこうの保存方法についても言及があり、「陶器の壺に入れ、湿気を避けることで数ヶ月の保存が可能」と記されています。この保存技術が、ちんすこうが沖縄の代表的な土産品として発展する基盤となったことが伺えます。

また、明治20年代の記録には、製造工程の簡略化や型押し技術の導入など、商業生産への移行を示す記述も見られます。これは現代のちんすこう製造の原型が、すでにこの時期に確立されつつあったことを示しています。

古文書から読み解くちんすこうの歴史は、単なる菓子の変遷だけでなく、琉球・沖縄の社会変化や文化の連続性を映し出す鏡でもあります。地域ごとの特色ある製法は、現代に継承されながらも進化を続け、沖縄の食文化の豊かさを今に伝えています。

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