ちんすこうと中国の関係性:琉球王朝時代の文化交流が生んだ伝統菓子
琉球と中国を結んだ菓子文化の架け橋
ちんすこうの起源を紐解くと、そこには琉球王国と中国の深い文化交流の歴史が見えてきます。16世紀から19世紀にかけて、琉球王国は中国(明・清朝)との朝貢貿易を通じて、様々な文化や技術を取り入れていました。史料によれば、ちんすこうの原型は中国福建省の伝統菓子「糖餅(タンピン)」だとされています。
「天妃小」から「ちんすこう」へ
ちんすこうの名前の由来には諸説ありますが、有力なのは中国の航海守護神「天妃(てんぴ)」を祀る際の供物「天妃小(てんぴしょう)」が語源という説です。琉球の言葉に変化して「ちんぴんしゅう」となり、さらに「ちんすこう」へと変化したと考えられています。

国立沖縄博物館の資料によると、1866年の「琉球国由来記」にはすでにちんすこうについての記述があり、王府御用達の菓子として重要な位置を占めていたことがわかります。当時は王族や貴族、または中国からの冊封使(さっぽうし)をもてなす高級菓子だったのです。
素材と製法に見る中国の影響
ちんすこうの基本的な材料である小麦粉、砂糖、ラードの組み合わせも、中国菓子の影響を色濃く反映しています。特に注目すべきは以下の点です:
– 小麦粉の使用: 米文化が中心の琉球で小麦粉を使った菓子が発展したのは、中国からの影響が大きい
– 型押し技法: 伝統的なちんすこうの成形に使われる木型は、中国の月餅などの菓子型と類似点がある
– 保存性: 砂糖とラードを使った配合は長期保存が可能で、これは海上交易が盛んだった当時の必要性を反映
琉球大学の食文化研究によれば、ちんすこうは琉球と中国を結ぶ「食の外交官」としての役割も果たしていました。中国からの使節を迎える際の歓迎菓子として、また中国への贈答品としても珍重されていたのです。

このように、一口のちんすこうには、500年以上にわたる琉球と中国の文化交流の歴史が凝縮されています。沖縄の伝統菓子でありながら、その起源をたどれば東アジアの広域にわたる食文化のネットワークが見えてくるのです。
琉球王国と中国の歴史的絆:ちんすこう誕生の背景
冊封関係が生んだ菓子文化の交流
琉球王国と中国(当時の明・清朝)の関係は、1372年から1879年の琉球処分まで約500年続いた「冊封関係」を基盤としていました。この朝貢関係の中で、琉球は中国から様々な文化や技術を取り入れ、その一つが菓子文化でした。史料によれば、15世紀頃から琉球に派遣された中国の冊封使(皇帝の使者)が、中国の菓子製法を琉球に伝えたとされています。
中国菓子「金餅」からの変容
ちんすこうのルーツは、中国福建省の伝統菓子「金餅(きんぴん)」にあるとされています。琉球王府の公式記録「球陽(きゅうよう)」には、1718年に尚敬王が中国風の菓子を好み、王府で製造させたという記述があります。この菓子が後のちんすこうの原型と考えられています。
中国の金餅は小麦粉と砂糖、豚脂を主原料とする点でちんすこうと共通していますが、琉球では地元の食材や気候に合わせて独自の進化を遂げました。例えば:
– 中国の金餅:小麦粉、砂糖、豚脂に加え、ごま油や香辛料を使用
– 琉球のちんすこう:シンプルに小麦粉、砂糖、ラードを基本とし、沖縄の気候に適した硬さに調整
貿易がもたらした材料と技術
琉球は「万国津梁(ばんこくしんりょう)」の精神のもと、東アジアの貿易ハブとして栄えました。那覇の久米村には多くの中国人(唐人)が居住し、彼らの食文化も琉球に根付いていきました。
琉球王国の公式記録によれば、18世紀には中国から輸入された高級小麦粉「唐粉(とうこ)」が王府御用達として珍重され、特別な菓子製造に使用されていました。この高級小麦粉を使った菓子の一つが、宮廷菓子としてのちんすこうでした。

中国との文化交流は材料だけでなく製法にも及び、型押し技術や乾燥方法など、現在のちんすこう製造の基礎となる技術が伝えられました。琉球独自の環境と文化の中で洗練され、今日私たちが知る「ちんすこう」として発展したのです。
中国菓子「糕餅(カオピン)」から琉球の「ちんすこう」へ:製法と変遷
中国菓子「糕餅(カオピン)」の琉球への伝来
ちんすこうの原型とされる中国の「糕餅(カオピン)」は、明の時代(1368-1644年)に琉球へ伝来したと考えられています。福建省を中心とした中国南部で親しまれていたこの菓子は、琉球と中国の活発な貿易活動を通じて沖縄に渡ってきました。史料によれば、1392年に中国から派遣された「閩人三十六姓(びんじんさんじゅうろくせい)」と呼ばれる職人集団が首里に定住した際、彼らの食文化とともに製法が伝えられたとする説が有力です。
製法の変遷:素材と技術の現地化
中国の「糕餅」と琉球の「ちんすこう」の決定的な違いは、使用する油脂にあります。中国本土では植物油を使用することが一般的でしたが、琉球では豚の飼育が盛んだったことから、ラードを用いた製法へと変化しました。沖縄県立博物館の調査資料によれば、18世紀頃には既に現在のちんすこうに近い製法が確立されていたことが分かっています。
当初の製法は以下のように変化しました:
– 材料の現地化:中国産の小麦粉から琉球で調達できる材料へ
– 製法の簡略化:複雑な中国菓子の技法から、島の環境に適した方法へ
– 形状の変化:円形や複雑な形から、現在の長方形の形へ
王朝菓子から庶民の菓子へ
琉球王朝時代(1429-1879年)、ちんすこうは「御菓子(うかし)」と呼ばれる王族や貴族のための特別な菓子でした。しかし、明治時代以降、その製法は一般に広まり始めます。1908年の「沖縄県統計書」には、首里地区だけで12軒のちんすこう専門店が記録されており、庶民の間でも親しまれる菓子へと変貌を遂げていったことがわかります。
中国の「糕餅」から琉球の「ちんすこう」への変遷は、単なる菓子の伝播ではなく、琉球の風土や文化に合わせた創造的な適応の過程でもありました。中国と琉球の文化交流の証として、今日も私たちの舌を楽しませてくれるこの伝統菓子には、500年以上の歴史が凝縮されているのです。
中国の影響が色濃く残るちんすこうの伝統的な材料と製法
ちんすこうに継承された中国伝統の製法

ちんすこうの本質を理解するには、その材料と製法に宿る中国の影響を知ることが欠かせません。琉球王国と中国の交易が盛んだった14世紀から19世紀にかけて、製菓技術も重要な文化交流の一つでした。
中国福建省の「桃酥(とうす)」と呼ばれる焼き菓子がちんすこうの原型と考えられています。桃酥は小麦粉、砂糖、豚脂(ラード)を主原料とする点がちんすこうと酷似しており、琉球の製法に大きな影響を与えました。特に豚脂の使用は中国菓子の特徴で、これが琉球の風土と融合し、独自の発展を遂げたのです。
中国から伝わった伝統的な型押し技法
中国では菓子に意匠を施す「印菓(いんか)」の文化があり、この技法がちんすこうの製造にも取り入れられました。木型や陶器の型を使って菓子に文様を付ける方法は、現在も沖縄の老舗菓子店で受け継がれています。
史料によると、1866年に中国から琉球に贈られた菓子型には龍や鳳凰、花などの文様が刻まれており、これらの文様は琉球王家の菓子にも採用されました。現在でも「家紋入りちんすこう」として特別な場面で作られることがあります。
中国由来の材料と配合比率
琉球大学の民俗学研究によれば、伝統的なちんすこうの配合比率は、小麦粉1に対して砂糖0.3〜0.5、ラード0.3〜0.4という黄金比が存在します。この比率は中国福建省の伝統菓子とほぼ同じであることが確認されており、材料の調合法も中国から伝わったことを示しています。
また、ちんすこうの焼成温度(160〜180℃)と時間(15〜20分)も中国の桃酥と類似しており、低温でじっくり焼き上げることで独特の食感を生み出す技術も中国から伝わったものです。沖縄の高温多湿な気候に合わせて、保存性を高めるための乾燥度合いの調整など、琉球独自の工夫も加えられました。
中国との文化交流によって生まれたちんすこうは、400年以上の時を経て沖縄の代表的な菓子として愛され続けています。その製法と材料に宿る中国の影響を知ることで、一口のちんすこうから広がる東アジアの食文化の豊かさを感じることができるでしょう。
琉球と中国の文化交流がもたらした他の伝統菓子との比較
琉球と中国の甘い絆:ちんすこうと他の伝統菓子

琉球王国と中国の長年にわたる交流は、ちんすこうだけでなく、様々な伝統菓子の誕生に影響を与えました。ちんすこうの文化的背景を理解するには、同時期に発展した他の琉球菓子との比較が重要です。
ちんすこうと月餅の類似点
中国の「月餅」とちんすこうには興味深い共通点があります。両者とも小麦粉を主原料とし、型押しで模様をつける製法や、贈答品として重宝される文化的位置づけが似ています。しかし、月餅が餡を包む構造であるのに対し、ちんすこうはシンプルな生地だけで作られる点が大きく異なります。琉球大学の民俗学研究によれば、この違いは琉球の気候風土への適応過程で生まれたとされています。
琉球菓子の多様性と中国の影響
ちんすこう以外にも、中国からの影響を受けた琉球菓子には以下のようなものがあります:
– ポーポー:中国の「胡餅」を起源とし、琉球で独自の発展を遂げた平たい焼き菓子
– クンペン:中国福建省の「金餅」に由来し、琉球王朝の宮廷で儀式用に発展
– サーターアンダギー:中国の揚げ菓子の技法を取り入れながら、琉球独自の形状と味わいに
沖縄県立博物館の調査では、これらの菓子はいずれも17世紀から18世紀にかけて中国との交易が盛んだった時期に琉球で広まったことが確認されています。特に興味深いのは、同じ中国の影響を受けながらも、各菓子が琉球の気候や入手可能な材料に合わせて独自の進化を遂げた点です。
文化交流の証としてのちんすこう
ちんすこうが他の琉球菓子と比較して特筆すべき点は、その保存性の高さです。中国との交易船の往来に合わせて発展したちんすこうは、長期保存が可能な点が重視されました。那覇市歴史博物館の資料によれば、19世紀の琉球では中国使節への贈答品として特別なちんすこうが製造され、その製法は厳格に管理されていたことがわかっています。
このように、ちんすこうは単なる菓子ではなく、琉球と中国の文化交流の歴史を今に伝える貴重な文化遺産といえるでしょう。私たちが口にするちんすこう一つひとつには、何世紀にもわたる東アジアの交流の歴史が凝縮されているのです。
ピックアップ記事



コメント